納豆日記

とりあえず納豆が食べたいです。が、納豆のことは特に書かないと思います。

ストックホルムにて

12年ぶりのストックホルムは、

物価の安いアジアから急にやってくるには刺激が強すぎた。

 

初めての海外。初めてのヨーロッパ。

原点回帰、なんて感傷を抱きながらの1週間は、

やはり物価が高くてもここに寄ってよかったと思えるような滞在だった。

 

1週間でその国を判断することなんてできないけれど、

弾丸で観光地をまわるよりはほんの少しだけその国と向き合える。

 

ベトナムに1か月いてわかったことは、

なにもわからないということだけだったが、それはどこでも同じだ。

 

街で会った1、2人の人間からその国の国民性はわからないし、

ひとりの乞食を見ただけでその国の闇は見えてこない。

 

寒く暗い冬も、時として日本人からは冷たく感じられるくらいの個人主義

小学生のころには知る由もなかった。

幻想を幻想のままにしないことが、あえてば目的のひとつだったが、

可能な限りいろいろ吸収した1週間を経ても、

やはりスウェーデンは今でも少しspecialだ。

 

各々抱える問題はあれど、総体としては日本よりはるかに進んだ政治システムも、

そうあるために不可欠な国民の成熟した政治参加の意識も、

首都ストックホルムのど真ん中に国立公園があるような自然あふれる環境も。

来日したあるスウェーデン人は日本の大学生との公開講義で投げかけられた

「政治って何か?」というクエスチョンに不思議そうな顔で

「政治って僕らのことじゃないの?」と答えた。この距離感にはまだまだだ。

 

様々な国で様々な生き方があり、差し迫るプレッシャーに、

そんなにおびえる必要はないんじゃないかという気にさせてくれる。

もちろん学びへの貪欲かつストイックな姿勢なしでは成り立たないが。

 

語学を勉強するときに一度は感じる、帰国子女への羨望は

わかっていながらもなんとなく持ち続けがちだ。

彼らなりのアイデンティティクライシスと確立しゆく過程を一瞬だけ垣間見ると

そこには想像したこともない葛藤がやはりある。

見えてるものだけがすべてではなく、それだけが真実ではない。

 

勉強不足を感じるばかりの遊学期間は、それ自体一つの学びと割り切って進んでゆくしかないだろう。あまり時間はないけれど、まだまだ遅くない。

 

アジアでのことも文章にすべきだろう、なんならもっと早くから。

 

ストックホルムを思いつつ、ヘルシンキ行きのバスを待つフィンランドの港町トゥルクのカフェにて雑感を殴り書きしておく。